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再び未来を考える

2011年から2015年までの4年間で、福島の人々は、放射線防護の専門家とともに、具体的な問題に対処するための専門知を共有することを通じて、実用的放射線防護の文化を生み出した。 ​

再び未来を考える

再び未来を考える

2011年から2015年までの4年間で、福島の人々は、放射線防護の専門家とともに、具体的な問題に対処するための専門知を共有することを通じて、実用的放射線防護の文化を生み出した。 ​

福島の人たちにとって、未来はどのようなものだろうか

​​故郷から追い立てられ、「いつもどおりの暮らし」から切り離された人々が、日々の心配から解放され、未来について考えることができるようになるのは、何ヵ月、そして何年も先の事だ。 しかし、ただ不幸を受容するのではなく、それよりも強いなにかの存在が、一部の人たちを前へと進ませた。4年後、彼らは明日について考える力を取り戻した。 水平線に、それまでとは違う未来が現れたのだった。新しい未来のかたちは、過去数年の経験、相互理解と信頼、自由な選択、希望と夢とを土台とするものだった。

壊れた発電所がもつ潜在的なリスクに、用心深く目を光らせることが、未来を下から支える。一部の人たちは、万一の場合に備えて、今後も線量計を引き続き持ち続けることを考えている。

除染、復旧、復興に膨大な労力が払われているにもかかわらず、福島の浜通りなど、いくつかの地域の状況は、平常とは程遠い。それは、その地域の見通せる限りの未来についても同様だ。しかし、事態は進んでいる。 ダイアログに参加したほとんどの人は、自分たちの生活を取り戻すことを、ごく当たり前に考えられるようになっている 活動している人たちは、ようやく自分を表現し、自分が何をしているかを説明できるようになりました。」 ダイアログセミナーの参加者のひとりは、そう強調した。 「福島県の人たちは、ある程度自信が戻ったような気持ちがします。」 と、丹羽太貫は分析している。この傾向は参加者も指摘したように、ダイアログセミナーを重ねるごとに、はっきりとしてきた。

一方で、別の参加者は、 「ここにいる多くの人々は前向きです。でも、いまも難しい状況で、前を向けない人たちのことも忘れてはいけないと思います。」 と、釘を刺した。​「新たなる発想と新たなる対策、ビジョンを持ってやっていけば、世界に例のない素晴らしいものが出来るだろうと思います。そのチャンスを私は与えられたと思っています。」 飯舘村で農業を営む菅野クニは、こう考える。

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子供たちのことが何よりも心配​​

子供たちは、未来の象徴であるがために、もっとも憂慮される問題となる。また、子供に対する気がかりが、現在のさまざまな取り組みの大きな原動力となっている。しばしば、子供たちへの教育が、家族の中での意見の違いをさらに際立たせることもある。子供にベストなものを、と望む親にとって、教育はいちばん大きな問題だ。福島県の汚染された地域に暮らす人たちにとっても、すべてが異質な場所で避難生活を過ごす人たちにとっても、これは、本当に悩ましい懸案事項になった。

健康、教育、人格形成、子供たちの生活のあらゆる場面で、自分たちは子供のために本当に正しい選択をしたのだろうか、 という疑問が、親たちの心の中に浮かんでしまうのだ。おそらく、子供たちの毎日の生活のために参考になる情報を求める親にとっては、子供に関する専門家と放射線防護の専門家との対話は、他の地域以上に重要になるだろう。

2011年3月の個人的、集合的体験から、福島に住む家族たちは、環境の伝承には、特に意識を高く持っている。「自分が諦めたら、息子には、選択肢そのものがなくなってしまいます。」  第9回ダイアログセミナーに参加した遠藤眞也は、そう述べた。もし、自分が原発事故を理由に、先祖から伝わってきた田の耕作を放棄してしまったら、息子には、将来、農業を続けるという選択肢が残されなくなってしまう。遠藤にとって、農業を続けることは、過去から未来に土地を手渡し、伝統を守ることである。これは、その重要性についての証言である。​

 

地域社会と協力

​安定した社会基盤に守られてきた国の中で、家族と地域社会がばらばらになると、諦めの気持ち、そして、見放されてしまったという感覚が、強まっていった。それでも、時間が経って、いくつかの取り組み-測定や測定データについての話し合い、専門家との集まり、知識を得る、意思決定、得た成果についての情報、そのフィードバックなど-を通じて、自分たちの暮らす場所をよりよくしていこうという機運が高まってくるにつれ、地域社会の中でも、協力していこうという熱意が少しずつ強まってきた。

震災以降、お互いを助け合い、そして、地域社会の外の人たちとも経験を共有しながら、素晴らしい仕事をなしとげた福島の人たちの数は、増えている。人々は、地域社会の中で支え合い、自分たちの暮らす環境をよくしていっている。 それぞれが、楽観的であろうとも悲観的であろうとも、騒がしくとも静かであろうとも、各自の個性を認め、それぞれの自由な選択を尊重する。これは、価値観とやり方の違いを認識することであり、相互理解の根本原則である。

だが、いくつもの場所にちりぢりになってしまった地域社会を存続させることは、多くの自治体がこれから取り組まなければならない、とりわけ大きな課題だ。このような状況で、未来を、ともに考えることはできるのだろうか。​​

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福島の人たちにとって、未来はどのようなものだろうか

福島の人たちにとって、未来はどのようなものだろうか

​​故郷から追い立てられ、「いつもどおりの暮らし」から切り離された人々が、日々の心配から解放され、未来について考えることができるようになるのは、何ヵ月、そして何年も先の事だ。 しかし、ただ不幸を受容するのではなく、それよりも強いなにかの存在が、一部の人たちを前へと進ませた。4年後、彼らは明日について考える力を取り戻した。 水平線に、それまでとは違う未来が現れたのだった。新しい未来のかたちは、過去数年の経験、相互理解と信頼、自由な選択、希望と夢とを土台とするものだった。

壊れた発電所がもつ潜在的なリスクに、用心深く目を光らせることが、未来を下から支える。一部の人たちは、万一の場合に備えて、今後も線量計を引き続き持ち続けることを考えている。

除染、復旧、復興に膨大な労力が払われているにもかかわらず、福島の浜通りなど、いくつかの地域の状況は、平常とは程遠い。それは、その地域の見通せる限りの未来についても同様だ。しかし、事態は進んでいる。 ダイアログに参加したほとんどの人は、自分たちの生活を取り戻すことを、ごく当たり前に考えられるようになっている 活動している人たちは、ようやく自分を表現し、自分が何をしているかを説明できるようになりました。」 ダイアログセミナーの参加者のひとりは、そう強調した。 「福島県の人たちは、ある程度自信が戻ったような気持ちがします。」 と、丹羽太貫は分析している。この傾向は参加者も指摘したように、ダイアログセミナーを重ねるごとに、はっきりとしてきた。

一方で、別の参加者は、 「ここにいる多くの人々は前向きです。でも、いまも難しい状況で、前を向けない人たちのことも忘れてはいけないと思います。」 と、釘を刺した。​「新たなる発想と新たなる対策、ビジョンを持ってやっていけば、世界に例のない素晴らしいものが出来るだろうと思います。そのチャンスを私は与えられたと思っています。」 飯舘村で農業を営む菅野クニは、こう考える。

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子供たちのことが何よりも心配​​

子供たちは、未来の象徴であるがために、もっとも憂慮される問題となる。また、子供に対する気がかりが、現在のさまざまな取り組みの大きな原動力となっている。しばしば、子供たちへの教育が、家族の中での意見の違いをさらに際立たせることもある。子供にベストなものを、と望む親にとって、教育はいちばん大きな問題だ。福島県の汚染された地域に暮らす人たちにとっても、すべてが異質な場所で避難生活を過ごす人たちにとっても、これは、本当に悩ましい懸案事項になった。

健康、教育、人格形成、子供たちの生活のあらゆる場面で、自分たちは子供のために本当に正しい選択をしたのだろうか、 という疑問が、親たちの心の中に浮かんでしまうのだ。おそらく、子供たちの毎日の生活のために参考になる情報を求める親にとっては、子供に関する専門家と放射線防護の専門家との対話は、他の地域以上に重要になるだろう。

2011年3月の個人的、集合的体験から、福島に住む家族たちは、環境の伝承には、特に意識を高く持っている。「自分が諦めたら、息子には、選択肢そのものがなくなってしまいます。」  第9回ダイアログセミナーに参加した遠藤眞也は、そう述べた。もし、自分が原発事故を理由に、先祖から伝わってきた田の耕作を放棄してしまったら、息子には、将来、農業を続けるという選択肢が残されなくなってしまう。遠藤にとって、農業を続けることは、過去から未来に土地を手渡し、伝統を守ることである。これは、その重要性についての証言である。​

 

地域社会と協力

​安定した社会基盤に守られてきた国の中で、家族と地域社会がばらばらになると、諦めの気持ち、そして、見放されてしまったという感覚が、強まっていった。それでも、時間が経って、いくつかの取り組み-測定や測定データについての話し合い、専門家との集まり、知識を得る、意思決定、得た成果についての情報、そのフィードバックなど-を通じて、自分たちの暮らす場所をよりよくしていこうという機運が高まってくるにつれ、地域社会の中でも、協力していこうという熱意が少しずつ強まってきた。

震災以降、お互いを助け合い、そして、地域社会の外の人たちとも経験を共有しながら、素晴らしい仕事をなしとげた福島の人たちの数は、増えている。人々は、地域社会の中で支え合い、自分たちの暮らす環境をよくしていっている。 それぞれが、楽観的であろうとも悲観的であろうとも、騒がしくとも静かであろうとも、各自の個性を認め、それぞれの自由な選択を尊重する。これは、価値観とやり方の違いを認識することであり、相互理解の根本原則である。

だが、いくつもの場所にちりぢりになってしまった地域社会を存続させることは、多くの自治体がこれから取り組まなければならない、とりわけ大きな課題だ。このような状況で、未来を、ともに考えることはできるのだろうか。​​

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ダイアログを通じて最初に学んだこと

​​福島ダイアログセミナーは、生きた民主主義の実例である。そこでは、地域社会は、受け身の指示待ちの群衆ではなく、自分たちのために自由意思に基づき、他者のために相互の信頼、それと同時に、敬意に基づき、意思決定を行える個人の集まりであるとみなされた。​​

4年間にわたる議論と経験を、いくつかの教訓としてまとめることは難しい。しかし、全12回の ダイアログセミナーを通じて共有された経験は、チェルノブイリ原発事故の影響を与えられたベラルーシとノルウェーなどの地域での経験から得られた、核となる教訓を裏付けている。

住民自身による身近な環境の放射線モニタリングは、回復のための重要な要素になるということ。さらに、誰もが自分の懸念、感情、心配、願望などを表現しやすい対話の場で測定結果を共有できれば、徐々に地域レベルでのイニシアチブの基礎となり、自分の暮らしを取り戻して自由な行動が可能になる。

持続的なコミュニケーションと地域レベルでのイニシアチブに焦点を当てた協力、そして放射線の専門家と一般市民の日常の共有が、住民の生活条件や個人の自尊心と幸福の回復につながる。

最後に、得られた重要な教訓は記録に留められ、福島県内に、そして、福島県を超えて広げられ、世界のどこかで同じような状況が起きた時に、ただちに利用できるようにするべきである。​

生活への全体的な影響

最初に学んだことは、放射能の問題は、たんに被曝による健康影響の問題だけなのではない、ということだった。 放射能が生活に侵入することの影響は、現実において、そして心理的にも、突然コントロールを失うということである。自分はどうすればよいのか、あるいは、するべきでないのか? 外出、帰宅、換気のための窓の開閉、飲食、子どもの外遊び、通学——こうした、日常のあらゆる些細な出来事を、常に疑わなくてはならず、これが不安と孤絶感のほとんどの原因となる。

時間が経つにつれ、このことは、自信を失い、また相互の信頼、とりわけ行政と専門家に対する信頼を失った人たちの中に、緊張した関係を生み出してしまった。「汚れた」環境に住んでいるという感覚と、汚染「されてしまった」という感覚が、自尊心の喪失という形で現れたと言えるだろう。放射線状況を改善するためにとられた措置(除染、立入禁止区域内への通行禁止、食品の摂取制限など)は、同時に疎外感を強める結果をもたらし、こうした感覚を悪化させた。というのは、汚染「されてしまった」という思いは、さらなる分裂を生み出しがちだからである。土地を離れることに決めた人々、もしくは離れざるを得なかった人々にとって、放射能は自分たちを土地から追いやった闖入者と感じられた。自分の人生が根こそぎにされてしまうという、言葉にならない苦痛、そして、現在もなお続く板挟み、「戻るのか、戻らないのか?」

 

​​誰もが何かをすることができる

福島第一原子力発電所事故による放射能汚染は、ほとんどの住民を混乱に陥れた。しかし、それは、他の面では、人間のひとつの局面をはっきりと示した。関わりあいを持とうとすること、リーダーシップをとろうとすること、地域社会のために行動をとろうとすること、そんな特性である。複雑な状況に直面した時も、こうした決然とした態度によって、住民、地方行政、助言を与える専門家の間の連携した取組が可能となり、前へ進んでいく道も見いだされた。伊達市のような一部の地域では、地方行政によって、その機運が作られた。末続、筆甫(宮城県丸森町の一部)といった別の地域では、住民自身が先陣を切った。

両方のケースで住民の現実の懸念に対応するには、様々な背景を持つ専門家の支援が必要だった。そうした専門家の多くは、組織の代表としてではなく、個人として係わった人たちだった。この特有の状況が、住民と、時間をかけて支援した専門家たちとの間に信頼を築き、まるで共同体の一員であるかのような絆を作る鍵だった。

 

装飾はいらない。ただシンプルに。

住民と専門家の「対等の立場」で行うダイアログは、福島の人々が新しい指標を見つけ、生活を再構築するための手助けの一歩となった。 この対話のきわだった特徴は、「住民を中心にした」ものであることだ。つまり、福島の人たちが必要とするものを中心として、住民と専門家の関係を作っていったのだ。専門家の中には、人々のもつ懸念をさらにしっかりと共有するために、福島に拠点を移した者もいる。これは、人々がなにを必要とし、なにを期待しているのかを摑むために、すばらしい視点を持つことを可能にした。

学んだこととしては、放射線被曝に関するリスクと影響について話し合うことの難しさが挙げられる。 住民たちは、知識の現状に関しての不確実性と限界を考慮に入れて、専門家に対して謙虚であること、科学と意見の間に区別を付けることを求めた。そして、なによりも、個人の価値観と選択に敬意をはらうことを求めた。最後に、住民たちは、放射線から身を守る方法は、直面する問題の1つでしかないことを理解してもらうことを求めた。放射線防護は、ここでは人々の生活を支配することではない。それは、人々が、自分たちの生活を統御する手助けなのである。

 

共有すべき専門知がここにある

ダイアログで学んだ重要な教訓は、既存の公式を使うことでは、人々の抱える本当の問題に対しては、ほとんど助けにならないということだ。 住民が日々取り組まなければならない課題に、効率的に対処するためには、専門知を構築するプロセスを協働して作らなければならない。つまり、まず専門家が、困難な状況に向き合っている人たちが抱える問題や、懸念、課題、期待に耳を傾け、話し合う場を作ることである。

また、共有された専門知、あるいは、“共有知”は、地域社会の状況や人々の事情を、地域住民と専門家が一緒に考えることによって、作り上げられる。 地域の専門家や行政からの支援のもと、そこに暮らすひとりひとり、あるいは地域社会にとって、いちばん重要であると思われる問題に対応するため、計画を策定し、実行した結果を見直し、さらに、そこで得られた経験を広めるのである。

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ともに生み出された「実用的放射線防護文化」

具体的な問題に対応するための専門知を共有することを通じ、ダイアログセミナーに参加した多くの人たちは、少しずつ放射線から身を守るために実践的な対応方法を編み出した。これは、利用できる適切な機器を使い、自分たちで放射能を測定し、空間線量、内部被曝、外部被曝、食品測定などの新しい語彙に慣れていくという取組みだった。日常生活とは馴染みがなかったこうした語彙に、測定結果を理解するために、一夜にして慣れなくてはならなくなったのだった。

実用的放射線防護文化を作ることは、専門家の助言を得ながら、自分たちで測定結果について話し合い、それによって、家族や地域社会など、ひとりひとりがそれぞれ決断し、自分自身を守るようになることだ。 自分で決めことがふたたびできるようになるにつれ、ダイアログに参加した福島の人たちの多くは、ベラルーシで行われたのと似たやり方で、具体的な取組をひとつずつはじめた。ベラルーシとの大きな違いは、放射線の状況を知るために測定機器を利用できること、それから、情報共有で果たしたソーシャルメディアの役割である。

効果的なものはいくつもあったが、中でもとりわけ、放射線防護文化の実用性は、放射能の影響を受けた地域で、暮らしの状況に目に見える改善をもたらすと同時に、再び未来に目を向けさせる力を与えたのだった。​​

ダイアログを通じて最初に学んだこと

ダイアログを通じて最初に学んだこと

​​福島ダイアログセミナーは、生きた民主主義の実例である。そこでは、地域社会は、受け身の指示待ちの群衆ではなく、自分たちのために自由意思に基づき、他者のために相互の信頼、それと同時に、敬意に基づき、意思決定を行える個人の集まりであるとみなされた。​​

4年間にわたる議論と経験を、いくつかの教訓としてまとめることは難しい。しかし、全12回の ダイアログセミナーを通じて共有された経験は、チェルノブイリ原発事故の影響を与えられたベラルーシとノルウェーなどの地域での経験から得られた、核となる教訓を裏付けている。

住民自身による身近な環境の放射線モニタリングは、回復のための重要な要素になるということ。さらに、誰もが自分の懸念、感情、心配、願望などを表現しやすい対話の場で測定結果を共有できれば、徐々に地域レベルでのイニシアチブの基礎となり、自分の暮らしを取り戻して自由な行動が可能になる。

持続的なコミュニケーションと地域レベルでのイニシアチブに焦点を当てた協力、そして放射線の専門家と一般市民の日常の共有が、住民の生活条件や個人の自尊心と幸福の回復につながる。

最後に、得られた重要な教訓は記録に留められ、福島県内に、そして、福島県を超えて広げられ、世界のどこかで同じような状況が起きた時に、ただちに利用できるようにするべきである。​

生活への全体的な影響

最初に学んだことは、放射能の問題は、たんに被曝による健康影響の問題だけなのではない、ということだった。 放射能が生活に侵入することの影響は、現実において、そして心理的にも、突然コントロールを失うということである。自分はどうすればよいのか、あるいは、するべきでないのか? 外出、帰宅、換気のための窓の開閉、飲食、子どもの外遊び、通学——こうした、日常のあらゆる些細な出来事を、常に疑わなくてはならず、これが不安と孤絶感のほとんどの原因となる。

時間が経つにつれ、このことは、自信を失い、また相互の信頼、とりわけ行政と専門家に対する信頼を失った人たちの中に、緊張した関係を生み出してしまった。「汚れた」環境に住んでいるという感覚と、汚染「されてしまった」という感覚が、自尊心の喪失という形で現れたと言えるだろう。放射線状況を改善するためにとられた措置(除染、立入禁止区域内への通行禁止、食品の摂取制限など)は、同時に疎外感を強める結果をもたらし、こうした感覚を悪化させた。というのは、汚染「されてしまった」という思いは、さらなる分裂を生み出しがちだからである。土地を離れることに決めた人々、もしくは離れざるを得なかった人々にとって、放射能は自分たちを土地から追いやった闖入者と感じられた。自分の人生が根こそぎにされてしまうという、言葉にならない苦痛、そして、現在もなお続く板挟み、「戻るのか、戻らないのか?」

 

​​誰もが何かをすることができる

福島第一原子力発電所事故による放射能汚染は、ほとんどの住民を混乱に陥れた。しかし、それは、他の面では、人間のひとつの局面をはっきりと示した。関わりあいを持とうとすること、リーダーシップをとろうとすること、地域社会のために行動をとろうとすること、そんな特性である。複雑な状況に直面した時も、こうした決然とした態度によって、住民、地方行政、助言を与える専門家の間の連携した取組が可能となり、前へ進んでいく道も見いだされた。伊達市のような一部の地域では、地方行政によって、その機運が作られた。末続、筆甫(宮城県丸森町の一部)といった別の地域では、住民自身が先陣を切った。

両方のケースで住民の現実の懸念に対応するには、様々な背景を持つ専門家の支援が必要だった。そうした専門家の多くは、組織の代表としてではなく、個人として係わった人たちだった。この特有の状況が、住民と、時間をかけて支援した専門家たちとの間に信頼を築き、まるで共同体の一員であるかのような絆を作る鍵だった。

 

装飾はいらない。ただシンプルに。

住民と専門家の「対等の立場」で行うダイアログは、福島の人々が新しい指標を見つけ、生活を再構築するための手助けの一歩となった。 この対話のきわだった特徴は、「住民を中心にした」ものであることだ。つまり、福島の人たちが必要とするものを中心として、住民と専門家の関係を作っていったのだ。専門家の中には、人々のもつ懸念をさらにしっかりと共有するために、福島に拠点を移した者もいる。これは、人々がなにを必要とし、なにを期待しているのかを摑むために、すばらしい視点を持つことを可能にした。

学んだこととしては、放射線被曝に関するリスクと影響について話し合うことの難しさが挙げられる。 住民たちは、知識の現状に関しての不確実性と限界を考慮に入れて、専門家に対して謙虚であること、科学と意見の間に区別を付けることを求めた。そして、なによりも、個人の価値観と選択に敬意をはらうことを求めた。最後に、住民たちは、放射線から身を守る方法は、直面する問題の1つでしかないことを理解してもらうことを求めた。放射線防護は、ここでは人々の生活を支配することではない。それは、人々が、自分たちの生活を統御する手助けなのである。

 

共有すべき専門知がここにある

ダイアログで学んだ重要な教訓は、既存の公式を使うことでは、人々の抱える本当の問題に対しては、ほとんど助けにならないということだ。 住民が日々取り組まなければならない課題に、効率的に対処するためには、専門知を構築するプロセスを協働して作らなければならない。つまり、まず専門家が、困難な状況に向き合っている人たちが抱える問題や、懸念、課題、期待に耳を傾け、話し合う場を作ることである。

また、共有された専門知、あるいは、“共有知”は、地域社会の状況や人々の事情を、地域住民と専門家が一緒に考えることによって、作り上げられる。 地域の専門家や行政からの支援のもと、そこに暮らすひとりひとり、あるいは地域社会にとって、いちばん重要であると思われる問題に対応するため、計画を策定し、実行した結果を見直し、さらに、そこで得られた経験を広めるのである。

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ともに生み出された「実用的放射線防護文化」

具体的な問題に対応するための専門知を共有することを通じ、ダイアログセミナーに参加した多くの人たちは、少しずつ放射線から身を守るために実践的な対応方法を編み出した。これは、利用できる適切な機器を使い、自分たちで放射能を測定し、空間線量、内部被曝、外部被曝、食品測定などの新しい語彙に慣れていくという取組みだった。日常生活とは馴染みがなかったこうした語彙に、測定結果を理解するために、一夜にして慣れなくてはならなくなったのだった。

実用的放射線防護文化を作ることは、専門家の助言を得ながら、自分たちで測定結果について話し合い、それによって、家族や地域社会など、ひとりひとりがそれぞれ決断し、自分自身を守るようになることだ。 自分で決めことがふたたびできるようになるにつれ、ダイアログに参加した福島の人たちの多くは、ベラルーシで行われたのと似たやり方で、具体的な取組をひとつずつはじめた。ベラルーシとの大きな違いは、放射線の状況を知るために測定機器を利用できること、それから、情報共有で果たしたソーシャルメディアの役割である。

効果的なものはいくつもあったが、中でもとりわけ、放射線防護文化の実用性は、放射能の影響を受けた地域で、暮らしの状況に目に見える改善をもたらすと同時に、再び未来に目を向けさせる力を与えたのだった。​​