海に面した末続地区は、2011年3月11日、津波の大きな被害を受けた。
原子力発電所事故発生直後から、仁志田市長以下の市役所チームが先頭にたって対策をうった伊達市とは異なり、末続の住民たちは、運命を自分たちの手で切り拓いた。
その出発点となったのは、いわき市の住人である安東量子と土建業兼農家である遠藤眞也の出会いだった。ふたりは、2011年3月の災害がなければ出会うことはなかっただろう。それぞれスタイルは違うものの、安東と遠藤のやり方は、人と人が力を合わせ、そして、それぞれが自発的に取り組みを始めるという人間の能力を、よく具現化している。そう、外部からの助けを辛抱強く待つのではなく、自分たちの暮らしを再び取り戻すために。
メディアが福島第一原子力発電所の事故を伝えた時、安東量子と遠藤眞也は、すぐに、自分たちの間近で何か恐ろしいことが起こっていると感じた。そして状況を知り、脅威がどの程度なのかを把握するための情報収集を開始した。末続では、すぐに人々は避難させられたのだが、一部の住民は戻り、互いの自助の取り組みを通じて、自分たちの暮らしを取り戻そうと決めた。
遠藤眞也、土建業者及び兼業農家、いわき市末続地区
「今の現状では大丈夫って思っているかもしんないっすけど、その影響っていうのは5年先、10年先になってみないと、記録がないわけですから、だからそれはわからないっすよね。でもできれば元の場所で生活していたいし、元の環境に戻りたいじゃないですか、だからその為に自分で努力しなければそういう環境はできないんですよ。」
迷路から抜け出すための苦闘
原子力発電所の事故直後、生活は疑問だらけになった。放射能とは何か?短期、あるいは長期的に、健康にどんな影響を与えるのか?どうやって検出できるのか?測定器はどこで購入できるのか?測定値は何を意味するのか?どうやって汚染を取り除くのか?何を食べてよいのか、そして何を避けた方がよいのか?
安東は、必死でウェブを検索し、その答え、あるいは少なくとも決定をくだすためのヒントを探した。ソーシャルメディアを通じて、安東は、専門家から発信される情報や案内を入手することができた。また、ICRPとICRP Publication 111についても知るようになり、そこからETHOSプロジェクトの一環として、ベラルーシで行われた取組にたどり着いた。これは、チェルノブイリ原子力発電所の事故後、国内外の放射線防護専門家が共同で、汚染された地域に住む住民と密接に連携して行った取組みである。安東は、事故後の状況管理の重要な点として、放射能汚染に影響を受けた地域の人々の尊厳に重きをおいていることに感銘を受けた。このやり方に大きな関心を持った安東は、ジャック・ロシャール氏や丹羽太貫氏といったICRPの専門家に連絡を取った。彼らは、福島県内の住民と放射線防護の専門家の理解を深め、意見を交換するために、2011年秋に第1回ダイアログセミナーを立ち上げていた。
「皆が皆そのこの測定値を見て安心するためにやってるわけでもないんですね、とにかく自分の測定値を元にどう考えるかっていうようなことを話してもらうことが大切で、結論よりも話をしてお互い何を考えてるかとにかく話すこと。」— 末続地区の住民