​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​福島ダイアログセミナー 2011-2015年​進むべき方向を求めてさまよう人々

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進むべき方向を求めてさまよう人々

​​​​​​​2011年3月11日から16日までの間に、福島県民は巨大地震、壊滅的な被害をもたらした津波と想定外の3基の原子炉のメルトダウンを経験した。全く予測していなかったこの状況に人々は翻弄され、深い心の傷を負うこととなった。​

進むべき方向を求めてさまよう人々

進むべき方向を求めてさまよう人々

​​​​​​​2011年3月11日から16日までの間に、福島県民は巨大地震、壊滅的な被害をもたらした津波と想定外の3基の原子炉のメルトダウンを経験した。全く予測していなかったこの状況に人々は翻弄され、深い心の傷を負うこととなった。​

​​​​​​​2011年3月11日午後2時46分震度9.0の東日本を襲った地震は今まで経験したことのない規模の地震であった。

地震に続く津波は500平方キロメートルにわたって陸に押し寄せ1万6千人以上の命を奪い、福島第一原子力発電所のディーゼル発電機を全滅させた。

過熱した燃料棒のメルトダウンが1号機から3号機で起こり、大気に約52万テラベクレル(Tbq)の放射性物質が3月12日から3月31日の間に放出された。​


 

福島第一原子力発電所の事故に伴う大気中への放射性物質拡散シミュレーション

出典:IRSN/Météo France​​​​

​ 

​​​狼狽から怒りへ

原子力発電所事故発生直後の数日間は、とりわけ困難な時期だった。ガソリン不足と公共交通機関の停止のため、家から自由に移動することが難しく、冬の寒さのなか、停電・断水と相まって、言葉通り「寒さのなか放り出される」感覚を、人々は抱いたのだった。

これまでの落ち着いた自分たちの生活が失われてしまったという感覚が強まるにつれ、多くの人にとって、当初受けた衝撃は、次第に落胆へと変わっていった。

この状況から逃れることはできない、なすべきことの手がかりも見つからない、自分を信じることもできない、決断を下すこともできない。ささやかな毎日の雑事でさえ、そうだった。外出すること、帰宅すること、家の窓の開け閉め、飲んだり食べたりすること、子供を学校に送ること…。 なにが安全で、なにがそうでないのか? 時が経つにつれ、くつろげるわが家が、見えない敵―放射能―に取り囲まれた、居心地の悪い場所となってしまった。

行政から時機を得た支援がないまま、日が経ち、緊急事態に対応できない行政に対して、住民の落胆は不信感になった。

この間ずっと、メディアの報道は、原発の状況に集中していた。原子炉の冷却機能の喪失、衝撃的な3つの原子炉の爆発、放射性物質のフォールアウト、避難区域の拡大、その区域に住んでいた人々の避難…。 けれど、原発の近くに住んでいた人たちの苦難については、どうだったのか? 放射能で汚染された環境で暮らすことなど、予想だにしていなかった人たちのことは? 住民について、多くは統計的な対象として伝えられ、生活の自由を奪われたひとりひとりの人たちの、はかり知れない不安については、ほとんど語られることがなかった。​​


 

事故後の福島における避難区域の変遷​​

2011年3月 ​​

3月11日:第一原発から2㎞圏内、次いで3㎞圏内の住民に避難指示。3㎞~10㎞圏内の区域で屋内退避を指示。

3月12日:10㎞圏内、次いで20㎞圏内の区域に避難指示。

3月15日:20㎞~30㎞圏内の区域で屋内退避を指示。

3月25日:政府は、20㎞~30㎞圏内の屋内退避区域の住民に対し、この地域からの避難を奨励。

​2011年4月​​

4月22日:第1原発から20㎞圏内の区域を立入禁止区域に指定。20㎞~30㎞圏内の区域における屋内退避指示は解除。

「計画的避難区域」と「避難準備区域」の2つの区域が新たに設定された。

​2011年9月

9月30日:「避難準備区域」を解除。

 

 

出典:復興庁 / www.reconstruction.go.jp – 在日フランス大使館原子力部​​​​

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​​​​​​​2011年3月11日午後2時46分震度9.0の東日本を襲った地震は今まで経験したことのない規模の地震であった。

地震に続く津波は500平方キロメートルにわたって陸に押し寄せ1万6千人以上の命を奪い、福島第一原子力発電所のディーゼル発電機を全滅させた。

過熱した燃料棒のメルトダウンが1号機から3号機で起こり、大気に約52万テラベクレル(Tbq)の放射性物質が3月12日から3月31日の間に放出された。​


 

福島第一原子力発電所の事故に伴う大気中への放射性物質拡散シミュレーション

出典:IRSN/Météo France​​​​

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​​​狼狽から怒りへ

原子力発電所事故発生直後の数日間は、とりわけ困難な時期だった。ガソリン不足と公共交通機関の停止のため、家から自由に移動することが難しく、冬の寒さのなか、停電・断水と相まって、言葉通り「寒さのなか放り出される」感覚を、人々は抱いたのだった。

これまでの落ち着いた自分たちの生活が失われてしまったという感覚が強まるにつれ、多くの人にとって、当初受けた衝撃は、次第に落胆へと変わっていった。

この状況から逃れることはできない、なすべきことの手がかりも見つからない、自分を信じることもできない、決断を下すこともできない。ささやかな毎日の雑事でさえ、そうだった。外出すること、帰宅すること、家の窓の開け閉め、飲んだり食べたりすること、子供を学校に送ること…。 なにが安全で、なにがそうでないのか? 時が経つにつれ、くつろげるわが家が、見えない敵―放射能―に取り囲まれた、居心地の悪い場所となってしまった。

行政から時機を得た支援がないまま、日が経ち、緊急事態に対応できない行政に対して、住民の落胆は不信感になった。

この間ずっと、メディアの報道は、原発の状況に集中していた。原子炉の冷却機能の喪失、衝撃的な3つの原子炉の爆発、放射性物質のフォールアウト、避難区域の拡大、その区域に住んでいた人々の避難…。 けれど、原発の近くに住んでいた人たちの苦難については、どうだったのか? 放射能で汚染された環境で暮らすことなど、予想だにしていなかった人たちのことは? 住民について、多くは統計的な対象として伝えられ、生活の自由を奪われたひとりひとりの人たちの、はかり知れない不安については、ほとんど語られることがなかった。​​


 

事故後の福島における避難区域の変遷​​

2011年3月 ​​

3月11日:第一原発から2㎞圏内、次いで3㎞圏内の住民に避難指示。3㎞~10㎞圏内の区域で屋内退避を指示。

3月12日:10㎞圏内、次いで20㎞圏内の区域に避難指示。

3月15日:20㎞~30㎞圏内の区域で屋内退避を指示。

3月25日:政府は、20㎞~30㎞圏内の屋内退避区域の住民に対し、この地域からの避難を奨励。

​2011年4月​​

4月22日:第1原発から20㎞圏内の区域を立入禁止区域に指定。20㎞~30㎞圏内の区域における屋内退避指示は解除。

「計画的避難区域」と「避難準備区域」の2つの区域が新たに設定された。

​2011年9月

9月30日:「避難準備区域」を解除。

 

 

出典:復興庁 / www.reconstruction.go.jp – 在日フランス大使館原子力部​​​​

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とどまるか、出て行くか?  帰るか、帰らないか?

​​​​損壊した原子力発電所から20km圏内の住民にとって、選択の余地はなかった。

政府の決定に従い、住民たちは、発電所から離れた仮設住宅や賃貸住宅などへ移り住むことしかできなかった。約9万人の住民が強制避難の対象となった。

福島県民202万4401人(2011年3月1日現在)のうち、約15万人が大震災、津波、福島第1原発事故後に避難した。

以下の6つの市町村は全域が避難区域内にある。2013年8月および2015年1月に実施された調査によると、元の地域への帰還を考えている避難民のパーセンテージは以下のとおりである(出典:在日フランス大使館原子力部)。

福島第一原発事故後の避難区域© IRSN / 在日フランス大使館原子力部​

とどまるか、出て行くか?  帰るか、帰らないか?

とどまるか、出て行くか?  帰るか、帰らないか?

福島第一原発事故後の避難区域© IRSN / 在日フランス大使館原子力部​

​​​​損壊した原子力発電所から20km圏内の住民にとって、選択の余地はなかった。

政府の決定に従い、住民たちは、発電所から離れた仮設住宅や賃貸住宅などへ移り住むことしかできなかった。約9万人の住民が強制避難の対象となった。

福島県民202万4401人(2011年3月1日現在)のうち、約15万人が大震災、津波、福島第1原発事故後に避難した。

以下の6つの市町村は全域が避難区域内にある。2013年8月および2015年1月に実施された調査によると、元の地域への帰還を考えている避難民のパーセンテージは以下のとおりである(出典:在日フランス大使館原子力部)。

だが、立入禁止区域の外側の住民にとって、状況はまったく異なるものだった。決断は、自分自身が下さなければならなかった。とどまるか、出て行くか?

とどまることは、つまり、常にそこにある、侵入してきた目に見えない敵と向き合うことを意味する。また、同時にそれは、移住を決断した家族や隣人と離れることをも意味する。しかし、とどまることは、一方でまた、住み慣れた環境で、仕事を続け、生計を保つことができることをも意味するのだ。

逆に、放射能の危険から距離を取るために、その地から離れることは、放射能を気にしないで食べ、より安心に暮らせる場所を見つけて自分の人生のコントロールを取り戻すことを意味する。しかし、それは、とどまり続ける人たちのことを、見捨てるかのように感じられるだろうし、見知らぬ避難先の住民に異国人として認識されることをも意味する。ただ、居場所を見つけたいだけなのに。


 

子供をめぐる苦渋の選択

出て行く人にとっても、残る人に取っても、決断することは、心の痛みをともなうものだった。子供のこととなると、なおさらである。

大槻真由美(39・事故当時)は、伊達市の郊外の霊山町に住む。彼女は、夫とその両親とともに、二人の息子も一緒に家族全員でとどまることを決めた。現在、二人の息子、征也は8歳、小学校に通い、隼也は6歳、幼稚園に通っている。

PTA役員の大槻は、学校と幼稚園の運営にも関わっている。彼女は、集落の未来にとって、学校はとても重要だと思っている。彼女は、集落の未来にとって、学校はとても重要だと思っている。「私たちの学校がある石田地区は、これまでも地域の伝統を守り続けてきましたし、とても小さな学校ではありますけれど、伝統文化をとても大切にしてきました。ここは都市ではなくて、田舎の小さな集落なので、学校の生徒数はとても少ないです。幼稚園もそうです。」

Mayumi Ootsuki 大槻真由美伊達市霊山町在住

「ちょっとまずいのですぐ避難できるように、まあ要は準備しておいた方がいいね、っていう話をしたのを記憶してるんですね、14日の昼頃。うんそうだねって事で、であの当時ですね、避難したくても出来なかった人って沢山いて、なぜ出来なかったのか、まず行く所がない方が沢山いるんですよね。」

伊藤早苗(50・事故当時)は、もともとは南相馬市原町区に住んでいた。事故が起きてすぐに、彼女は、母親と娘を連れて南相馬を離れることを決めた。。「事故が起きた時は、娘の中学校の卒業式の日でした。私の頭の中にあったのは、娘も守りたい、それだけでした。」 南相馬からの車での避難は、精神的にとても厳しいものだった。いったん、東京に仮住まいし、その後、最終的に、京都に落ち着いた。

娘は、故郷や友人と離れることを嫌がり、母親と意見が一致せず、母親と日常的に口論が絶えず、勉強にも身が入らなかった。だが、時間とともに、生活は落ち着き始め、いまは、学校であたらしい友達もでき、外国語を勉強することに興味をもっている。

Sanae Ito 伊藤早苗 京都に避難、元南相馬市市民

「年にやっぱり2、3回は南相馬市に帰ります。今もやっぱり戻りたいと言う気持ちはあるんですけど戻れないと言う気持ちも大きいです。」


 

帰還

伊藤早苗は京都に住みつづけることを決めたが、門馬麻衣子(33・事故当時)はいわきの四ツ倉に戻った。 彼女の家は、海岸からわずか300メートルのところにあった。かろうじて津波の被害は免れたが、子どもたちを連れて、追いかけてくる津波から必死に高台へ逃げたあのときの恐怖は、彼女に深く焼き付いて、今も離れることはない。当時2才の男の子と11ヶ月の女の子の母親であった門馬は、二人の子供を連れ、夫を残して四ツ倉から避難することを決めた。薬局を営んでいる夫が一緒に避難してしまえば、店をたたみ、従業員を解雇することになってしまうからだった。

子供たちを守りたい、という責任感から、彼女は60km離れた郡山市へ向かい、そこで夫の両親とともに1ヶ月過ごした。その後、実家の両親から、もっと原発から離れた場所へ逃げるように勧められて、彼女は、郡山からさらに110kmの自分の故郷である宮城県仙台市に移った。仙台は、門馬の両親と妹がいる、安全で、そして、馴染みある場所だった。

夫が一緒であれば、仙台での生活は、ほとんど日常と変わりないものだったろう。だが、会いたい時に会うことができない、離れ離れの生活は、徐々につらいものになっていった。原発事故のせいで、仙台市へ向かう途中経路である南相馬といわきの間は迂回せざるをえず、3、4時間はかかったからだ。「2013年の春、通行止めになっていた南相馬といわきの間の国道6号を通り抜けられる特別許可証がもらえると、知人から聞きました。そこまで状況がよくなっているなら、戻っても大丈夫だ、そう思って、帰ることに決めました。」 門馬はそんな風に記憶をたどってくれた。

Maiko Momma 門馬麻衣子 放射線防護の支援相談員、いわき市未読地区

「海のそばに戻るのはちょっとやっぱり凄く怖かった。子供が小さいせいもあったと思うんですけど。恐怖感は凄くありました。」

森林内の地表面で測定された空間線量率 © Jean-Marc Bonzom / IRSN​

森林内の地表面で測定された空間線量率 © Jean-Marc Bonzom / IRSN​

だが、立入禁止区域の外側の住民にとって、状況はまったく異なるものだった。決断は、自分自身が下さなければならなかった。とどまるか、出て行くか?

とどまることは、つまり、常にそこにある、侵入してきた目に見えない敵と向き合うことを意味する。また、同時にそれは、移住を決断した家族や隣人と離れることをも意味する。しかし、とどまることは、一方でまた、住み慣れた環境で、仕事を続け、生計を保つことができることをも意味するのだ。

逆に、放射能の危険から距離を取るために、その地から離れることは、放射能を気にしないで食べ、より安心に暮らせる場所を見つけて自分の人生のコントロールを取り戻すことを意味する。しかし、それは、とどまり続ける人たちのことを、見捨てるかのように感じられるだろうし、見知らぬ避難先の住民に異国人として認識されることをも意味する。ただ、居場所を見つけたいだけなのに。


 

子供をめぐる苦渋の選択

出て行く人にとっても、残る人に取っても、決断することは、心の痛みをともなうものだった。子供のこととなると、なおさらである。

大槻真由美(39・事故当時)は、伊達市の郊外の霊山町に住む。彼女は、夫とその両親とともに、二人の息子も一緒に家族全員でとどまることを決めた。現在、二人の息子、征也は8歳、小学校に通い、隼也は6歳、幼稚園に通っている。

PTA役員の大槻は、学校と幼稚園の運営にも関わっている。彼女は、集落の未来にとって、学校はとても重要だと思っている。彼女は、集落の未来にとって、学校はとても重要だと思っている。「私たちの学校がある石田地区は、これまでも地域の伝統を守り続けてきましたし、とても小さな学校ではありますけれど、伝統文化をとても大切にしてきました。ここは都市ではなくて、田舎の小さな集落なので、学校の生徒数はとても少ないです。幼稚園もそうです。」

Mayumi Ootsuki 大槻真由美伊達市霊山町在住

「ちょっとまずいのですぐ避難できるように、まあ要は準備しておいた方がいいね、っていう話をしたのを記憶してるんですね、14日の昼頃。うんそうだねって事で、であの当時ですね、避難したくても出来なかった人って沢山いて、なぜ出来なかったのか、まず行く所がない方が沢山いるんですよね。」

伊藤早苗(50・事故当時)は、もともとは南相馬市原町区に住んでいた。事故が起きてすぐに、彼女は、母親と娘を連れて南相馬を離れることを決めた。。「事故が起きた時は、娘の中学校の卒業式の日でした。私の頭の中にあったのは、娘も守りたい、それだけでした。」 南相馬からの車での避難は、精神的にとても厳しいものだった。いったん、東京に仮住まいし、その後、最終的に、京都に落ち着いた。

娘は、故郷や友人と離れることを嫌がり、母親と意見が一致せず、母親と日常的に口論が絶えず、勉強にも身が入らなかった。だが、時間とともに、生活は落ち着き始め、いまは、学校であたらしい友達もでき、外国語を勉強することに興味をもっている。

Sanae Ito 伊藤早苗 京都に避難、元南相馬市市民

「年にやっぱり2、3回は南相馬市に帰ります。今もやっぱり戻りたいと言う気持ちはあるんですけど戻れないと言う気持ちも大きいです。」


 

帰還

伊藤早苗は京都に住みつづけることを決めたが、門馬麻衣子(33・事故当時)はいわきの四ツ倉に戻った。 彼女の家は、海岸からわずか300メートルのところにあった。かろうじて津波の被害は免れたが、子どもたちを連れて、追いかけてくる津波から必死に高台へ逃げたあのときの恐怖は、彼女に深く焼き付いて、今も離れることはない。当時2才の男の子と11ヶ月の女の子の母親であった門馬は、二人の子供を連れ、夫を残して四ツ倉から避難することを決めた。薬局を営んでいる夫が一緒に避難してしまえば、店をたたみ、従業員を解雇することになってしまうからだった。

子供たちを守りたい、という責任感から、彼女は60km離れた郡山市へ向かい、そこで夫の両親とともに1ヶ月過ごした。その後、実家の両親から、もっと原発から離れた場所へ逃げるように勧められて、彼女は、郡山からさらに110kmの自分の故郷である宮城県仙台市に移った。仙台は、門馬の両親と妹がいる、安全で、そして、馴染みある場所だった。

夫が一緒であれば、仙台での生活は、ほとんど日常と変わりないものだったろう。だが、会いたい時に会うことができない、離れ離れの生活は、徐々につらいものになっていった。原発事故のせいで、仙台市へ向かう途中経路である南相馬といわきの間は迂回せざるをえず、3、4時間はかかったからだ。「2013年の春、通行止めになっていた南相馬といわきの間の国道6号を通り抜けられる特別許可証がもらえると、知人から聞きました。そこまで状況がよくなっているなら、戻っても大丈夫だ、そう思って、帰ることに決めました。」 門馬はそんな風に記憶をたどってくれた。

Maiko Momma 門馬麻衣子 放射線防護の支援相談員、いわき市未読地区

「海のそばに戻るのはちょっとやっぱり凄く怖かった。子供が小さいせいもあったと思うんですけど。恐怖感は凄くありました。」