だが、立入禁止区域の外側の住民にとって、状況はまったく異なるものだった。決断は、自分自身が下さなければならなかった。とどまるか、出て行くか?
とどまることは、つまり、常にそこにある、侵入してきた目に見えない敵と向き合うことを意味する。また、同時にそれは、移住を決断した家族や隣人と離れることをも意味する。しかし、とどまることは、一方でまた、住み慣れた環境で、仕事を続け、生計を保つことができることをも意味するのだ。
逆に、放射能の危険から距離を取るために、その地から離れることは、放射能を気にしないで食べ、より安心に暮らせる場所を見つけて自分の人生のコントロールを取り戻すことを意味する。しかし、それは、とどまり続ける人たちのことを、見捨てるかのように感じられるだろうし、見知らぬ避難先の住民に異国人として認識されることをも意味する。ただ、居場所を見つけたいだけなのに。
子供をめぐる苦渋の選択
出て行く人にとっても、残る人に取っても、決断することは、心の痛みをともなうものだった。子供のこととなると、なおさらである。
大槻真由美(39・事故当時)は、伊達市の郊外の霊山町に住む。彼女は、夫とその両親とともに、二人の息子も一緒に家族全員でとどまることを決めた。現在、二人の息子、征也は8歳、小学校に通い、隼也は6歳、幼稚園に通っている。
PTA役員の大槻は、学校と幼稚園の運営にも関わっている。彼女は、集落の未来にとって、学校はとても重要だと思っている。彼女は、集落の未来にとって、学校はとても重要だと思っている。「私たちの学校がある石田地区は、これまでも地域の伝統を守り続けてきましたし、とても小さな学校ではありますけれど、伝統文化をとても大切にしてきました。ここは都市ではなくて、田舎の小さな集落なので、学校の生徒数はとても少ないです。幼稚園もそうです。」
大槻真由美伊達市霊山町在住
「ちょっとまずいのですぐ避難できるように、まあ要は準備しておいた方がいいね、っていう話をしたのを記憶してるんですね、14日の昼頃。うんそうだねって事で、であの当時ですね、避難したくても出来なかった人って沢山いて、なぜ出来なかったのか、まず行く所がない方が沢山いるんですよね。」
伊藤早苗(50・事故当時)は、もともとは南相馬市原町区に住んでいた。事故が起きてすぐに、彼女は、母親と娘を連れて南相馬を離れることを決めた。。「事故が起きた時は、娘の中学校の卒業式の日でした。私の頭の中にあったのは、娘も守りたい、それだけでした。」 南相馬からの車での避難は、精神的にとても厳しいものだった。いったん、東京に仮住まいし、その後、最終的に、京都に落ち着いた。
娘は、故郷や友人と離れることを嫌がり、母親と意見が一致せず、母親と日常的に口論が絶えず、勉強にも身が入らなかった。だが、時間とともに、生活は落ち着き始め、いまは、学校であたらしい友達もでき、外国語を勉強することに興味をもっている。
伊藤早苗
京都に避難、元南相馬市市民
「年にやっぱり2、3回は南相馬市に帰ります。今もやっぱり戻りたいと言う気持ちはあるんですけど戻れないと言う気持ちも大きいです。」
帰還
伊藤早苗は京都に住みつづけることを決めたが、門馬麻衣子(33・事故当時)はいわきの四ツ倉に戻った。 彼女の家は、海岸からわずか300メートルのところにあった。かろうじて津波の被害は免れたが、子どもたちを連れて、追いかけてくる津波から必死に高台へ逃げたあのときの恐怖は、彼女に深く焼き付いて、今も離れることはない。当時2才の男の子と11ヶ月の女の子の母親であった門馬は、二人の子供を連れ、夫を残して四ツ倉から避難することを決めた。薬局を営んでいる夫が一緒に避難してしまえば、店をたたみ、従業員を解雇することになってしまうからだった。
子供たちを守りたい、という責任感から、彼女は60km離れた郡山市へ向かい、そこで夫の両親とともに1ヶ月過ごした。その後、実家の両親から、もっと原発から離れた場所へ逃げるように勧められて、彼女は、郡山からさらに110kmの自分の故郷である宮城県仙台市に移った。仙台は、門馬の両親と妹がいる、安全で、そして、馴染みある場所だった。
夫が一緒であれば、仙台での生活は、ほとんど日常と変わりないものだったろう。だが、会いたい時に会うことができない、離れ離れの生活は、徐々につらいものになっていった。原発事故のせいで、仙台市へ向かう途中経路である南相馬といわきの間は迂回せざるをえず、3、4時間はかかったからだ。「2013年の春、通行止めになっていた南相馬といわきの間の国道6号を通り抜けられる特別許可証がもらえると、知人から聞きました。そこまで状況がよくなっているなら、戻っても大丈夫だ、そう思って、帰ることに決めました。」 門馬はそんな風に記憶をたどってくれた。
門馬麻衣子
放射線防護の支援相談員、いわき市未読地区
「海のそばに戻るのはちょっとやっぱり凄く怖かった。子供が小さいせいもあったと思うんですけど。恐怖感は凄くありました。」